衣川

川西大念仏剣舞保存会国指定・重要無形民俗文化財第303号

かわにしだいねんぶつけんばいほぞんかい

奥州市衣川区

代表者

伊藤 敏男

会員数

約15名

国の重要無形民俗文化財に指定された、
戦で成仏できない霊を鎮める舞。

大森神楽保存会

沿革

藤原清衡公が江刺の豊田館から衣川を越えて平泉に入り柳の御所造営していたころ、夜な夜な亡魂が物の怪となって世の中を荒しまわり、人々を恐れおののかせ惑わせました。清衡公は、これはどういうことかと、中尊寺のお坊様に相談しました。お坊様は「これは、過ぐる前九年・後三年の合戦において非業の最後を遂げた人たちが、成仏しきれずこの世をさまよっているものです。刀や弓で収められるものではなく、お釈迦様のお力で鎮めるしかありません」と語りました。清衡公は早速、山王権現に七日七夜のおこもりをしました。満願の日に一匹の猿公が現れ、荒れ狂う亡魂の中に混じり、猫間が淵(柳の御所と無量光院の間)に沈めていきました。御仏が猿の姿に身を変えて亡魂たちを浄土へと導いたのだと気づいた清衡公は、このことに感激し、家来の佐野弥左衛門に命じて、この様子を模し、創らせたのが川西大念仏剣舞です。なお、剣舞を創った佐野弥左衛門は、金色堂前の一角に葬られ、その墓は現在も剣舞塚として語り継がれています。

活動状況

毎年中尊寺において、春(5月3日)と秋(11月3日)の藤原祭りや8月24日のお施餓鬼法要に霊を鎮めるため踊られます。また、市芸術観賞会等で公演するほか、依頼を受けて年数回の発表や、一般家庭の新仏の供養に剣舞は演じられてきました。また、衣里小学校の子供同好会に指導する等、後継者育成にも力をいれてます。
平成5年には、国の重要無形民俗文化財に指定されました。

川西大念仏剣舞保存会

第5回奥州市民芸術文化祭
郷土芸能の祭典参加。

川西大念仏剣舞保存会

第5回奥州市民芸術文化祭
郷土芸能の祭典参加。

川西大念仏剣舞保存会

第5回奥州市民芸術文化祭
郷土芸能の祭典参加。

池田胴念仏保存会奥州市指定無形民俗文化財第36号

いけだどうねんぶつほぞんかい

奥州市衣川区池田地区

代表者

千葉 邦夫

会員数

9名

尊厳!
弔いのルーツを継続。

池田胴念仏保存会

沿革

第34代欽明天皇が崩御され、埋葬する時の霊の供養念仏行列が、この胴念仏の始まりであったと伝えられている。しかしどういう経路で当池田部落に伝わったのかについては由来記等の焼失もあり、今では知る術もないが、舞は明治の中頃、熊野神社別当、千葉熊之助氏から息子久之助氏、息子定三氏、その子邦夫氏へと受け継がれてきた。
その後一時中断したが、大正元年再興された。昭和26年物資不足による道具等の供給不能により再び中断したが、昭和48年教育委員会の要請を受けて太鼓の貸与等の援助を受けて復活し現在に至っている。

活動状況

当胴念仏はそもそも弔いであり、施餓鬼棚やお墓、送灯籠の前で行うものであり舞台の上でお見せするものではないといわれています。常にそこには線香とろうそくがあり、唱えは「ナミアムダブツ」である等、非常に地味なものである。 同系列と思われる念仏剣舞があるがそれと比べてみると●笛、太鼓、唱はほぼ同じ様に思われる●舞、胴念仏はござの上等で静か。念仏剣舞は躍動感あふれる、等の相違が見られるものの主旨は同様と思われる。
当胴念仏はここ百年余の間に数度の危機を乗り越えて来たが、現代の職の多様と過疎による後継者難に直面している。これを乗り越え後世に残すかが課題である。

池田胴念仏保存会

衣川荘での芸能発表会で写した物です。
今では伝承もむずかしくなってきました。

池田胴念仏保存会

胆江地区芸能祭。
金ヶ崎の会場で舞った写真です。

池田胴念仏保存会

大平念仏剣舞保存会奥州市指定無形民俗文化財第37号

おおだいらねんぶつけんばいほぞんかい

奥州市衣川区大平地区

代表者

高橋 萬

会員数

約10名

釈迦の教えのもとに念仏剣舞として形づくられ
仏教布教の役を担って踊り継がれております。

大平念仏剣舞保存会

沿革

踊られ始めた時期は不明ながら、文政7年の銘の太鼓(現在使用)が伝承されていることから、この時期には踊られていたであろう。戦後、後継者難に苦しみながらもつづけられ、昭和40年代より北股小学校に、昭和50年代に北股地区全体から後継者を募集。現在は大平地区の若者で活動を続けている。

演目紹介

大平念仏剣舞は、千数百年前の垂仁天皇のころ、天皇家の逝去の際に従者が殉死するのを哀れんでこれを禁じ、はにわに変えて子孫の繁栄を図り、剣をもって邪悪の魔神を払い、舞をもってその道をひらくことを念願して剣舞が誕生したものです。その後、仏教の伝来とともに住民が信仰心に燃え釈迦の教えのもとに念仏剣舞として形づくられ仏教布教の役を担って踊り継がれて現在に至っております。
「先剣舞」という踊りは、殉死した人達の亡霊が現れて、だんだんと荒れ狂っていき、やがて一人、二人と釈迦の教えの念仏によって亡魂たちを浄土へ導いていくという筋になっております。

大平念仏剣舞保存会

奥州市民芸術文化祭参加。

大平念仏剣舞保存会

奥州市民芸術文化祭参加。

大平念仏剣舞保存会

奥州市民芸術文化祭・開幕まつり参加。

川内神楽保存会奥州市指定無形民俗文化財第38号

かわうちかぐらほぞんかい

奥州市衣川区

代表者

菅原 宏

会員数

約10名

川内神楽は、二百年前に農村青年が身につけ、
神社豊年祭への奉納が起源と伝えられています。

川内神楽保存会

沿革

川内神楽は、二百年前に衣川村(現衣川区)要害の利平氏が、厳美町山谷(現一関市)の政吉氏に師匠を依頼し、川内の農村青年が身につけ、川内神楽として神社豊年祭等に奉納したのがその起源と言い伝えられている。五代目まで要害の相続人が庭元(代表者)として引き継いだ。明治末期にはいよいよ神楽は各地に盛んになり、再び山谷より師匠を頼み、その技量をさらにみがき、他に負けないものになったという。
大正5年には、平泉町戸河内からの依頼により、指導にあたり戸河内に一座を組織した。また、大正10年には、前沢町白鳥に新しい神楽が結成され、その際にも指導に当ったと伝えられている。このころは川内神楽の全盛時代でもあった。 その後、戦争その他の事情から後継者難におちいり、また、その頃から芝居、手踊等が各地に流行し始め、神楽の時代は終わったかのように思われた。しかし、今日まで川内神楽を継承してきて、今になって消滅させては先輩たちに申し訳ないと、昔からの見よう見まねで覚えた神楽を春秋に神社奉納しながら、その火は消えることはなかった。

活動状況

昭和53年衣川村(当時)無形文化財指定を受け、毎年各種行事に参加している。これからの大きな課題は、後継者問題であり、特に胴取(太鼓)の後継者が一番の悩みである。地域の大切な文化を末永く継承し伝えていきたいものである。

川内神楽保存会

第38回胆江神楽大会にて
「五條の橋」を披露。

川内神楽保存会

第38回胆江神楽大会にて
「五條の橋」を披露。

川内神楽保存会

第38回胆江神楽大会にて
「五條の橋」を披露。

大原神楽保存会奥州市指定無形民俗文化財第54号

おおはらかぐらほぞんかい

奥州市衣川区

代表者

高橋 末夫

会員数

6名

一関市厳美町から伝わり地元の人達が練り上げ、
現在稀に見る神楽と賞賛されるに至りました。

大原神楽保存会

沿革

大正11年頃、現一関市厳美町山谷から伝わり地元の人達が練り上げ、現在稀に見る神楽と賞賛されるに至った。人員不足と戦争の所以をもって継続の危機に瀕したこともあったが昭和43年秋、待望の二代目一座の結成を見、今日に至っている。

活動状況

衣川神楽まつり、南股地区センターの神楽シンポジウムなどに出演。また、各大会への出演、見学など。毎月定期的に練習をしています。

大原神楽保存会

奥州市民芸術文化祭・開幕まつり参加。

大原神楽保存会

奥州市民芸術文化祭・開幕まつり参加。

大原神楽保存会

奥州市民芸術文化祭・開幕まつり参加。

川東神楽保存会奥州市指定無形民俗文化財第57号

かわひがしかぐらほぞんかい

奥州市衣川区川東地区

代表者

村上 正

会員数

10名

戦後の混乱期にも人々の支えとなりましたが
20年あまり活動を休止の後に復活しました。。

川東神楽保存会

沿革

川東神楽保存会は、戦前から昭和28年頃まで、地元の住民によって結成され活躍するも、太平洋戦争の影響で休止していたが、昭和51年に復活し現在に至っている。

活動状況

復活後の活動は、「ころもがわ神楽大会への出場」および「奥州ころもがわ祭り」や地元の神社祭典への御神楽奉納」をメインに、一関市の厳美や花泉町および宮城県の栗原市で開催される各種大会に出場している。

川東神楽保存会

奥州市民芸術文化祭参加。

川東神楽保存会

奥州市民芸術文化祭参加。

川東神楽保存会

奥州市民芸術文化祭参加。

大森神楽保存会

おおもりかぐらほぞんかい

奥州市衣川区大森地区

代表者

佐藤 吉訓

会員数

約20名

伝統を受け継ぎ、演目の復元・伝承に努め、
神楽を通して人との絆を大切に活動しています。

大森神楽保存会

沿革

大森神楽は、1970年(昭和45年)7月、当時の衣川村立衣川小学校大森分校(現:奥州市衣川小学校に統合)教諭・佐々木久雄氏(故・三好京三/「子育てごっこ」直木賞受賞作家)と、当時の教育長で大原神楽(衣川区大原)の師匠・小坂盛雄氏が中心となり、分校の児童に神楽を伝授したのが始まりです。その後、学校教育とかかわり合いながら活動し、分校児童全員に踊り伝えられてきました。1988年(平成10年)3月、少子化に伴い大森分校は閉校。それを機に地元に残る卒業生を中心として、大森神楽保存会と称して再スタ-ト。一関市山谷から伝わる三輪流の流れを継承し、南部神楽の一団体として活動しています。

活動状況

昭和45年7月より学校教育の一環として最初は「みかぐら」のみでスタートしました。夏休みのラジオ体操のかわりに神楽を練習したことが新聞に載って、そのことをきっかけに衣装づくりや道具づくりなど、児童、教師のみならず、部落ぐるみで取り組みました。外部からの支援の輪も広がり、数多くの公演をこなすまでになりました。やがて子ども達の向上心は他のこども神楽の団体が演じる「演義神楽」に刺激をうけ、当団体でも「演義神楽」の練習を開始しました。当初は面など借り物で演じておりましたが、自前の面や神楽幕の完成など、神楽を演じる団体としての体を成してきました。テレビ出演や地元以外での公演も行われるようになり、完成形と言ってもいいと自負しております。いち小学校の分校をまさに舞台とし、地域の人々に支えられここまで伝えられた伝統芸能を絶やすことなく後世へ引き継ぎたいと思っております。

大森神楽ホームページhttp://oomorikagura.web.fc2.com/

大森神楽保存会

衣川小学校の「みかぐら」伝承・クラブ活動などの指導を通し、地域の芸能に触れる機会に協力しています。

大森神楽保存会

毎年2月に開催している「ころもがわ神楽まつり」。その他、同市内・県内外のイべントに協力しています。

大森神楽保存会

岩手県内や宮城県などの神楽大会への出演、大学の講義、サ―クル、首都圏の学校や民舞研に指導しています。